太宰府の天神様もびっくり 龍馬のあざとさ
24日放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は坂本龍馬が草案したといわれる、いわゆる「船中八策」をタイトルに放送があった。ドラマは、龍馬暗殺の終章に向け、いよいよ盛り上がっている。
慶応3(1867)年6月。坂本龍馬は、京都に滞在していた土佐藩主・山内容堂に対して、「大政奉還」実現を進言するために長崎から上洛するが、その途上の船上で後藤象二郎に対して8項目にわたる新政府体制の基本を提示した。これが「船中八策」。
だ。
龍馬がその甲板上で「船中八策」を示したとされる夕顔丸 この8項目。
実は、その3年前に、尊王攘夷派公卿5名の亡命を受け入れ保護していた、筑前福岡藩の大老・加藤司書が主張していたものだ、という説がある。
元治元(1864)年2月。尊王攘夷派公卿5名が長州から福岡藩領の太宰府天満宮・安楽寺へと移されると、薩摩、長州、土佐藩士が集まり会議を持った。この「太宰府会議」で、加藤司書は幕府が政権を朝廷に返還することを説いた。これは、事実上「船中八策」の1項目に並ぶ「大政奉還」をいうものであり、幕府への政権委譲が公然と衆目のなかで訴えられたのは、この時が最初であった。
また、福岡藩は、当時、対立の激しさが最高度にあった薩長間の調整に藩を上げて取り組んでいた。龍馬の功績とされる「薩長同盟」も、福岡藩の取り組みと、大藩としての保障があってゆえのものであった、とする説もある。
目先が利く、龍馬は、尊王攘夷派の亡命地・太宰府で見聞きしたことを、人に先駆けて実行したのだ。あの頃の太宰府は高杉晋作も一時、身を隠していたが、倒幕派の情報が集中する地であった。
天満宮に座す菅原道真公・天神様も、そのあざとさを驚きの目で見ておられたことではなかったか。さて、皆さんは、この異説、どのようにご覧になりますか?